回帰考。
明治の文人、斎藤茂吉もまた高湯を愛したひとりである。「斎藤という歌詠みが家に泊まって書いた詩がある」と高湯の宿のひとつ、吾妻屋当主が教えてくれた二篇のうち、ひとつは茂吉の全集・歌碑に刻まれている。茂吉にとって吾妻連峰は蔵王に並ぶ故郷の山であった。

吾妻連峰は福島と山形の県境に沿い東西に延びる標高2,000m級の山塊の総称。ほぼ全域が磐梯朝日国立公園に含まれた福島の天蓋である。ある意味、女性的な陰影を宿す深い高山樹林に覆われたその温和な山容の美しさに、茂吉は亡き母を見たのかもしれない。今となってはそれを知るすべもないが、いずれにせよ下界では味わえぬ体験を此処、高湯で得て、生涯の友、門間春雄と出会ったのである。

「山の峡 わきいづる湯に人通ふ 山とことはに たぎち霊し湯」 ─ 高湯温泉。

 

孤高の作家を癒したぬくもり

高湯を愛した作家たち

高湯温泉を訪れた作家たちには、それなりの共通性がある。
高湯温泉を愛した斎藤茂吉、加藤楸邨、埴谷雄高、庄野潤三といった人たちは、どことなく成熟して枯れた雰囲気を漂わせている。 これに対して飯坂温泉のような歓楽地の温泉地には、泉鏡花や若山牧水、竹久夢二が訪れており、いずれも華やかさがある。

東北の歌人「斎藤茂吉」

明治十五(1882)年、山形県南村山郡金瓶村生まれ、昭和二十八(1953)年没、歌人、評論家、随筆家、雑誌「アララギ」に参加。万葉風の「写生」を重視するだけでなく、自己の切実な叫びを歌にした。
 
茂吉にとって吾妻は、蔵王と並ぶ故郷の山であった。
吾妻山は、山形県と福島県に跨る連峰で、西吾妻山、中吾妻山、一切経山、東吾妻山、吾妻小富士からなっている。 山形県の白布天元台からの方が近い西吾妻山を除けば、いずれも磐梯吾妻スカイライン周辺に聳えており、福島市の高湯温泉はその登山口にあたる。
 
茂吉が高湯温泉に逗留したのは、大正五(1916)年夏のことであった。 信夫郡瀬上町の門間春雄が案内した。旅館の方でもかなり印象に残ったようで、吾妻屋の遠藤権治郎氏が、わざわざその時のことを「東京の客人庭坂より馬にて来る」と日記に留めている。

五日ふりし雨はるるらし
山腹の吾妻のさぎり天のぼり見ゆ

茂吉が高湯滞在記念にこの歌を書き残していたこともあり、一切経山と吾妻小富士の間に位置する桶沼側に建立された歌碑に刻まれ、昭和二十八(1953)年五月三十一日、除幕式が行われたのであった。
 
茂吉の歌碑は全国に九十いくつあるといわれるが、その殆どが没後である。茂吉が元気な時に吾妻山の歌碑の話を持ちかけても、快く承諾したのではないだろうか。 茂吉は高湯温泉で母なる山への思いを深くしただけでなく、かけがえのない友人門間春雄を得たからである。
 
また、式典に参加した長男で精神科医の斎藤茂太氏は、歌碑の場所から蔵王が見えるというのを聞いて、納得しただけでなく歌碑を前にして「一切経山の激しい噴煙のとどろきと、桶沼の底知れぬ深みと鎮まりを見た時に、私は父を感じ、父にふさわしい場所であると思った」と感想を述べている。
 
歌碑建立にあたっては、発起人らが吾妻屋に問い合わせてみると、遠藤権治郎当主が「斎藤とかいう歌詠みが家に泊まって書いてくれた詩がある」と教えてくれたので、茂吉の歌が確認されたのである。 このうちの一首は歌碑に刻まれたが、もう一首は斎藤茂吉全集にも納められていない歌である。 歌碑の歌について

山の峡わきいづる湯に人通ふ
山とことはにたぎち霊し湯
吾妻の歌は、この他にも大正十年一月一日発行の第二歌集「あらたま」に十六首が収録されている。 生きている者の声が、重なり合う山に反響するのに驚いてみたり、平地に下った時に、耳をついたカナカナという鳴き声にホッとしたりで、下界では味わえない体験を色々としたのであった。 こうして茂吉と高湯温泉とは深く結びついたのであった。 しかし月日が経つのは早く、桶沼の歌碑も荒れ果てたままで放置され、茂吉が詠んだ歌や歌碑建立の経過も忘れられようとしていた。
 
そこで高湯温泉観光協会では、平成十八年十一月に歌碑を修復し、多くの人に茂吉と高湯温泉との関係を知ってもらうために、昭和二十八年八月発行の冊子「茂吉と吾妻」を復刻した。

高湯温泉と東北の歌人・斎藤茂吉
  • 修復後の斎藤茂吉歌碑〜平成18年11月
  • 「茂吉と吾妻」再編復刻版〜編集発行は高湯温泉観光協会
<高湯温泉と斎藤茂吉>

明治十五年、山形県金瓶村(現上山市)生まれで正岡子規門下の伊藤左千夫に師事した。アララギ派の代表的歌人で「赤光」「あらたま」「白き山」などの歌集を発表した。「柿本人磨」の業績で帝国学士院賞を受賞し、精神科医で青山脳病院長を務め、長男は精神科医でエッセイストの斎藤茂太氏、二男は作家の北杜夫氏である。
第一歌集の「赤光(しゃくこう)」を出し歌人的な名声を高めた三年後の大正五年に、親交のあった福島市瀬上の歌人・門間春雄を訪ねた。門間の妹・丹治千恵が寄せた文には、大正五年七月二十日に瀬上に着いた茂吉が福島に十六日滞在し、高湯には七日間いて門間と温泉で親しく過ごした事が記されている。滞在した温泉宿・吾妻屋には茂吉の詠んだ吾妻の歌二首と扇が現存し、当時の交流の証となっている。

<吾妻山の斎藤茂吉歌碑>

磐梯吾妻スカイラインの頂上にあたる吾妻小富士南側の桶沼畔には、斎藤茂吉歌碑が建っている。これは茂吉の死後の昭和二十八年五月三十一日に、福島市の有志が茂吉を偲び歌碑を建てた。除幕式には約二千三百人が出席し、長男茂太さんが序幕を行った。
この歌碑は長年の風雪に晒され土台が崩れ石碑は転げ落ちていた。登山者などから修復を望む声があがっていたが、修復所管は国か県か市かなどと意見が分かれ、修復主体者の特定が出来ずにいた。そのための資料を探していたが吾妻屋の蔵から「茂吉と吾妻」という冊子が発見され、これが元に歌碑建立の経緯が明らかになった。
その結果、県と市が協力をして高湯温泉観光協会が修復事業主体者となるのが望ましいとして、平成十八年十一月に修復工事を行った。現在は綺麗に修復整備された歌碑を仰観ることが出来る。

<冊子・茂吉と吾妻>

今回の歌碑修復のための資料として、半世紀ぶりに日の目を見た冊子であるが、茂吉と吾妻山に関する詳細な資料発見は初めてで、茂吉の吾妻山への思いや高湯温泉とのつながりも明らかになった。また歌碑建立についての福島市の有志達の具体的な行動なども記載されており、あらためて資料として後世に残すべきと強く感じた。
幸い予算も付き資料印刷の目処もついたが、単に観光PR的な印刷物は望ましい物ではなく「茂吉と吾妻」復刻としての資料作りとした。
完成した再編「茂吉と吾妻」は新文も加え四十八ページ二千部の刊行となり、装丁もそれらしく落ち着いた良いものに仕上がった。これらは多くの方々に目に触れる様に図書館など関係所管に配布したので、機会あれば是非手にとってご覧頂きたい。

<最後に>

今回の高湯温泉と斎藤茂吉については、機会あって先人の資料などに触れることが出来た。そういった文を読み込むと、先人達の吾妻への思い入れと慈しみを大いに感じる事が出来る。
当時の吾妻の風景と今の風景は違いは無いのであるが、この思いは現代の我々よりも昔人の方がむしろ豊かだったのであろうと感じた。吾妻大権現の山岳宗教の歴史もあるが、普段の生活の日々の中で吾妻を見上げ、事あれば入山するという感覚は今以上に身近な時代であったのかもしれない。