ホテル観山はこのたびの東日本大震災での原発事故により
避難された方々の第二次避難所となりました。
その後仮設住宅などに移られた皆様より多くのお手紙を頂きました。
その一部をご紹介いたします。
ホテル観山の皆様へ
今回の避難に際し、宿泊に協力して下さり、又、真心こめた優しい心遣いで受け入れて下さり、
本当に、本当に有難うございました。
南相馬に帰れば、屋内退避という現実が待っています。
大切な家屋を失った方々から見ればまだ恵まれております。
家族、力を合わせて何が出来るのか、前向きに考えていきたいと思います。
皆様から頂いた心を、次は、私達が他の人の為につなげていきます。
まるで親族の家のようにゆったりと滞在できました。
今回の滞在で、この大塩裏磐梯の地が私達の心の故郷になりました。
この川の流れが、いつまでも清らかでありますように。
大塩は 流れも清き 我が故郷
避難のストレス しばし忘るる
皆様どうかお体を大切になさってください。
地震が起き、訳も分からずに主人と2人で公民館に移動しました。
避難所での生活は凄まじいものでした。
【暗くて】【狭くて】【寒くて】不安ばかりが増す生活でした。
もともと体が丈夫ではない私は、避難所生活2日目で体に異変がおこりました。
脂汗が出てきて、歩く事が出来無くなりました。
点滴を打たなければ成らない状態まで成ってしまいましたが、
食事もままならず持っていたブルーベリーの飴をなめながら毛布に包まり点滴を打つ生活でした。
旅館に避難したときも歩く事は困難な状態。
同じ大熊のみなさんは食事会場で食事をしていましたが、私は主人に食事を部屋へ運んでもらい一人で食事をしていました。
日が経つにつれみなさんは山へ行き山菜を採り、村中を散歩し、ロビーで話をしていましたが、私は部屋に閉じこもる生活でした。
自分で【旅館を自分の足で歩いて出て行きたい】と思うようになり、少しづつ部屋を出て、旅館を歩き、フロントで立って旅館の人と話をしながらリハビリを続けました。
そして、今日私は若松の仮設住宅に自分の足で歩いて移ります。
これから、どんな困難が私達に降りかかるかも知れませんが、
飴1つで耐えた事を思い出せば、どんな困難にも負けないような気がします。
長い間御世話になりました。
ホテル観山にて
三月十一日の震災と津波、そして更に三つの災害に遭遇して、
何もわからないうち役場の放送で公民館に避難命令が出て家族と両親と共に無事たどり着く事が出来ました。
翌日の朝、理由も分からず大熊町のバスに乗せられて田村市の総合体育館に避難させられました。
そこには大熊町民が約八百人位の人々で一杯でした。
一人のスペースは畳一枚もありませんでした。
最初の一週間位はお風呂もなく、寒い体育館の中で過ごしていました。
食事はカップ麺、パン、ジュース又はお茶が毎日、三食繰り返し同じパターンでした。
八日目から自衛隊の皆さんのお陰でお風呂ができ、毎日入浴する時間もでき、身体も温まり
ホット一息つく事が出来ました。半月過ぎてから食事も一日一食はご飯みそ汁が食べられる様になりました。
ホテル観山さん江
前略御免下さい
四月七日に観山さんにお世話になり三カ月、三月十一日より四カ月大変お世話になりました。
思えば田村市より、目標のない第二避難所へ、また今も目的の見えないまま仮設住宅へ。
でも私達は負けません。
ひろってもらった命、第二の人生は観山よりのスタート。
皆さん、専務、大女将、又、若女将、従業員の人達より、生きる希望をもらって必ず大熊に帰れる日を待って、前に進みます。
たとえ帰れなくとも若松にいる間、来春には仲間を連れて山菜採り、また観山のみなさんの所へ行ってみたいと思って観山を後にします。
本当に長い間御世話になりました。
お酒を飲んで書いておりますので涙やら・・
乱筆乱文で済みません。
観山の皆様へ
ありがとうございました。
四月七日から、四ケ月お世話になりました。
浜通りの大熊町から、喜多方へ来るようになるとは、夢にも思っておりませんでした。
三月十一日の地震により全てが変わり、これからどうなるのかという不安を抱えての移動でした。
体育館での生活とはちがい、お食事や温泉で身も心も穏やかな気持ちにさせてもらいました。
暖かいお布団で寝る事もできました。
地震により全てを失い、今まで自分が築きあげてきたものが、もう戻ってこないと思うと、
心が折れそうな毎日でしたが、旅館の皆様が私達に暖かく接してくれたことや、大熊の皆さんとの出会いが
これから頑張っていかなければという気持にさせてくれました。
新しい環境に慣れるまで、又、時間がかかりそうですが、大熊に帰れる日を信じて頑張っていきたいと思います。
今度は、観光で喜多方に来たいですね。その時はよろしくお願いします。
四カ月間、ありがとうございました。
心から感謝申し上げます。
長い間御世話になりました。
思い起こせば道の脇に残雪があり、大熊の二八八号の様な坂道をバスにゆられて来たのが昨日のようです。
ホテル観山様では、社長はじめ、私達、家族の様に親身になっていただき本当に有難うございました。
北塩原での田植えで心地よい汗をかき、山菜を摘んでは皆で御馳走になりおいしかったです。
「花見」「懇親会」楽しいひと時でした。
大女将の舞踊を始め、専務のカラオケ、楽しいUFOのダンス。私達を和ませて下さり、有難うございました。
私は一足先に退所しますが、何年先になるかもしれませんが一人前のホテル観山さんの御客として来たいと思っております。
本当にありがとうございました。
四月三日からホテルや旅館に移動することになり、私達は四月七日にホテル観山を紹介していただきました。
最初四月七日に来た頃には、残雪が道路の山際に沢山あり驚きました。
でもホテルに着いた時出迎えてくれた女将さん、専務さん、仲居さん、皆さんで優しく出迎えて下さいました。
心の中でホットする気持ちで一杯でした。でも日が過ぎるにつれて、私は単身生活を長くしていた為に
大熊の人達との面識が薄くわからない人達と一緒に生活できるか不安がありました。
しかし時間と日々が過ぎるにつれて、会話の中にとけこむ事が出来るようになりほっとしました。
又、女将さん、専務さん、仲居さん、皆さん家族同様に接してくださいまして本当に有難うございました。
五月二十日には北塩原中学校の皆さんと、四十年ぶりに田植えの経験までさせて頂き楽しい時間を過ごす事が出来ました。
そして月日の流れは早いもので、観山にお世話になってから三カ月が過ぎてしまいました。
毎日、朝昼晩と三食メニューを変えておいしい食事を作って頂きありがとうございました。
板前さんにも感謝しています。
私達家族も七月二十日にアパートに移る事になりました。
長い間本当にお世話になり有難うございました。
私はいわき市に住む事が出来ても仕事がまだ見つかっていないので不安です。
でも一日も早く仕事につける様頑張るつもりです。
最後になりましたが、ホテル観山の皆さんの事は私の人生にとって良き思い出として一生忘れません。
本当に有難うございました。
女将さん、妹さん、専務さん、皆さんお体に気をつけて下さい。
これから益々の御繁盛されます様にお祈り申し上げます。
避難所”ホテル観山”の思い出
私は、4月7日の午後 第一次避難所を後にし、第二避難所である当ホテル観山へ入館した。
残雪が道路わきに沢山あり以前から軽い脳梗塞を患っていた私には、辛い避難生活に耐えられるだろうか、
大熊町に帰りたいという思いばかりの毎日だった。
しかし、季節はめぐり、道端の雪も熔け友達と会話ができるようになった。
フキノトウが顔を出し始めた頃、リハビリを兼ね動き鈍い足をひきずりながら山塩を作っている所まで歩いた。
脚は棒のようになり痛かったが、リハビリは自分の為だとキモに命じながらだんだん歩く距離を伸ばしたせいか苦痛もなくなり耐えられるようになっていた。
ホテル観山に避難した三カ月を省みると、大熊町民でありながら見ず知らずの人と友達になれたこと、
当ホテル観山で働く皆々様と気兼ねなく自由に話せたこと、緑豊かな北塩原村の自然が、
不自由な脚を元には戻してはくれないが回復させてくれたことに感謝し、お別れのお礼と致します。
3ヵ月余のホテル観山避難生活ではありましたが、大熊町へ一日でも早く帰れる日を待ちわびながら仮設住宅で頑張って生きていきます。
何から何までお世話になりありがとうございました。
第二次避難所”ホテル観山”を去るにあたって
4月7日、第一次避難所である田村市総合体育館を後にし、午後2時過ぎ第二避難所となった”ホテル観山”へ来た。
周囲の山々は雪でおおわれ道路の側には除雪で固められた雪が堆積し、まだ寒さが続くのかと思うと故郷大熊町を忍ぶ毎日であった。
しかし、季節はめぐり、道端の雪が融け始めた頃、大熊町民でありながら見ず知らずの人と会話が出来るようになり避難生活を忘れさせる日々であった。
春の訪れとともに道端にはフキノトウが顔を出し季節の花が咲きはじめた頃、この緑豊かな北塩原村の山々を散策し満喫した。
“ホテル観山”にて避難した3ヵ月を省みれば、当館で働く皆々様の懇切ていねいな接待が避難している私達を十分和ませてくれた。
又、週2回出してくれた買い物バスが忘れることが出来ない思い出です。
私個人としては、北塩原村立中学生と一緒にやった田植え及び田の草取り、当ホテルで開催した避難者有志による花見や懇親会等です。
3ヵ月ホテル観山での避難生活ではありましたが、大熊町へ一日でも早く帰郷できる日を待ちわびながら借上住宅で頑張り生きていきます。
何から何まで長い間本当にお世話になりありがとうございました。