高倉宮一向十三人御通行

高倉宮以仁王は後白河天皇第二の皇子で、源頼政と平氏打倒の令旨を諸国の源氏に 伝えた。これが後には平氏滅亡のきっかけとなったが、企ては発覚、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされるが、裏面史によると、足利忠綱に助けられ ひそかに再起を計るべく源三位頼政の弟越後国小国の城主右馬頭頼之をたよって従者と共に都を後に御潜行の旅についた。 8月5日高倉宮以仁皇一行は上州沼田より中沼山に入ったころ、負傷した従者の一人尾瀬中納言藤原頼実は息を引き取る。一行は沼の麓の湿原に塚を築き「尾瀬院殿 大相居士」と改名し、手厚く葬った。この時以来中沼山の地名を“尾瀬”と呼ぶようになった。 一行は沼山峠を越え、岩代(福島県)の国に入った。九十九折りの道を下りた時 すっかり暗くなり一行は腰の大刀をとり、背の弓矢を入れる矢櫃をおろし休むことにした。その晩三河少将光明の病が悪化、亡くなられる。ここでも塚を築き手厚く葬る。そこで、この地を三河(実川)と言う様になり、一行が矢櫃を下ろして休んだ地を 矢櫃(ヤビツ)と言うようになった。 昔は8月6日には、オシトゲを作り仕事を休んで冥福を祈りました。 8月7日ようやく桧枝岐村に入られた一行は、村長勘解由之介の屋敷に滞在。 数日の間村民からは厚くもてなされ、一行に差し出された梨は事の他喜ばれ、その 木は“御前梨”と呼ばれた。又一行が好んで飲まれた清水は今でも“安宮清水”と呼ばれている。出立の朝、頼国は弟の眠る尾瀬のふもとに留まることを決意、以  仁皇も願いを聞き入れた。これより尾瀬大納言藤原頼国 尾瀬平に住む。 一行は大勢の村民と頼国に見送られ越後国に向かわれた。 入り小屋村に着くと時期はずれの椿が咲いていた。それをご覧になり    みちのくの南の山の玉椿      落人とわば、いな(伊南)とこたえよ と歌を詠まれた。 それ以来この地を伊南の郷と呼ぶようになった。 その後八十里越えを越えて、小国の城主石馬頼之の出迎えを受け長い旅を終えた。