越後国との境界決まる。

只見川上流の銀山平一帯には秋になると沢山のマスが上がって来た。 会津と国界にある越後の領民は豊漁なマスを得るため会津に税金を収めて マス漁を行っていた。 寛永18年(1641年)越後湯之谷村の村人が只見川の岸辺に光る石(銀)を 見つけた事より、越後高田藩と境界争いになる。 この時会津藩主加藤式部少輔 に訴えたがあまり関心を示さなかったので、桧枝岐村、田子倉村、只見村、石伏 村、内塩野又村の五つの村人が団結して江戸奉行所に訴えた(白峯銀山目安)。 越後方は松平越後の守という徳川家の親藩であり 譜代の酒井讃岐守が後押し したことから越後方が勝利、銀山平は越後の領分となった。 その後高田藩がとりつぶしになると銀山は幕府直轄になる。 特に明暦(1657年)から元禄年間(1710年)にかけては、シルバーラッシュに わき、山深いこの地に人家一千戸、寺院三戸、遊女屋三戸と繁盛したという。 その後坑道事故が何度も起こり閉山となる。今は奥只見湖の下に眠っている。