尾瀬檜枝岐温泉・そばの宿・旅館・丸屋/桧枝岐村/尾瀬
尾瀬檜枝岐温泉 そばの宿 丸屋 〒967-0525福島県南会津郡檜枝岐村居平638(尾瀬檜枝岐温泉)
女将の部屋
館内のご案内
手作り料理
ご予約
アクセス
そばまる家
尾瀬観光
お天気情報

村民生活

生活について

石碑・石仏
石碑 村内を歩いてみると、道の両脇に無数のお墓や石仏が並んでいる事に気が付きます。
信仰深い村人達は、いつでも亡くなった人達を慰め花を手向ける事ができるように畑仕事の通り道に葬ったと思われます。
石仏 又、雪深い土地で冬場の埋葬では遠くに運ぶことが難しかったとか、地形的に墓所を作るゆとりもなかったとも思われます。
本村の墓碑・石像は徳川時代中期に極めて上手な石工が刻んだと思われる物が多い。
※檜枝岐では墓場のことを“廟所(びょうしょ)”と言う
かろうと
四方立不知の法と言う秘伝により作られ水が漏れず、寸法は高一尺二寸、長二尺八寸、横一尺四寸、蓋は深さ三寸、男子用平面、女子用かまぼこ型。
嫁入りの時 衣類などを入れもって行き、本人死去の時 棺になる。
昭和25年頃までは あったと思われます。
遊 び
子供の遊び場は、ほとんど川原であった。 夏は水浴びもしたが、水着などない時代だから、皆下着で泳ぎ川原の石で体を乾かした。
かじか、や、岩魚を獲っては柳の枝に刺して持ち帰り、焼いて食べた。
一時“パッタ”という遊びが流行った。
一般的に言うメンコのことだが、手作りのそれも古い葉書で作った“葉書パッタ”で競う。パッタの強い子が尊敬された。
冬になると外では雪遊び、家ではお手玉や石とりなどして遊んだが、小学4年位になると皆しな縄ぶち(縄つくり)などして家の仕事を手伝った。
シャンプー
野菊を干しておいて煮出し、その汁をシャンプー代わりにした。
豆の煮汁なども使ったという。
石 鹸
洗濯には、灰汁(灰をお湯に浸しておき、上に浮いたゴミ等を取った上澄み液)を使った。
着 物
夏はゆかた、寒くなると“ののこ”と言って綿入れの着物を着て、袴を穿いた。普段はブタリ袴、畑仕事などの労働着にはホソッパカマを着用。
暮になると主婦は家族全員の着物を縫い返して正月に備えた。
袖の形で正月にはたもと、ちょっと改まった時は元禄、普段はさつまを着た。
隣村から藁を買って、“あしなか”と言う藁ぞうりを作り、雪の季節になると藁やがばで作った“深ぐつ”をはいた。
まじない
代々口伝えで受け継がれてきた“まじない”がある。
歯痛、走り瘡(皮膚病)・血止め・イボ取り・腹痛・喉に骨をさした…などで何人かの人達が得意のまじないがあった。
檜枝岐
  歌舞伎
檜枝岐歌舞伎 歌舞伎が会津方面で盛んに興行されたのは寛政、文化の頃であったと思われるが、檜枝岐では 寛保3年(1743年)に買い求め読まれていた浄瑠璃本が残っていることから、 会津方面でも早いほうかと思われる。
狭い高冷地に閉じ込められ、生活苦にあえぐ村民の唯一の慰安として伝承されてきた。 当時一生に一度は行きたいお伊勢参りの帰りは必ず江戸の檜舞台で歌舞伎を見るものとなっていた 特に好きな者達が器用に見覚え、また会津若松方面に出かけた時も歌舞伎がかかっていれば必ず見て帰る。 そして浄瑠璃本を買い求めては自分達で語り、明治末頃からは所作も専門家の振り付けを習うなど芸道の振興を図ってきた。
舞台は鎮守神社境内にあり鎮守神に向かって建てられた拝殿で、 毎年愛宕祭り(5月12日)と鎮守祭り(8月18日)に奉納歌舞伎として上演されてきた。 浄瑠璃語り(義太夫語り)は明治年代より竹本籐太夫(平野藤蔵)という田舎には珍しい美音の持ち主がいて、 毎年近郷まで出向いて上演し農民達に愛好されていたが、昭和26年84歳で死去された。
檜枝岐歌舞伎存続と振興は彼の存在なくしては語れないものである。 檜枝岐歌舞伎は古典そのままを口伝え、父から子、子から孫へと受け継ぎ伝えられてきた。 今現在六代伝承している家庭もあるという。
また、近年は9月第一土曜日に“歌舞伎の夕べ“として上演している。
(小冊子 千葉之家花駒座の“檜枝岐歌舞伎”を参考にしました)

尾瀬檜枝岐温泉 そばの宿 丸屋
〒967-0521 福島県南会津郡檜枝岐村居平638(尾瀬檜枝岐温泉)
フリーダイヤル 0120-91-3211/TEL 0241-75-2024
Copyright:(C) 2007 SOBANOYADO MARUYA All Rights Reserved