斎藤茂吉の歌と高湯温泉

磐梯吾妻スカイラインの頂上にあたる吾妻小富士南側の桶沼畔(桶沼北側)には、斎藤茂吉の歌碑が建っている。

これは茂吉の死後、昭和28年に福島市の有志が茂吉を偲び歌碑を建てたのであるが、

歌碑には
「五日ふりし雨はるるらし山腹の吾妻のさぎり天のぼり見ゆ」
と書かれている。

この歌の意味は何であるのか?と読者から質問があったのでお答えする。読者の方から送られてきた同歌は
「五日ふりし雨はるるらし山腹の吾妻のさき露天のぼりみゆ」
と書かれており、いつの間にか字句が変化していた。崩し文字は読みにくいものであるし、印刷物にも誤字等があり、しかも「露天」といういかにも高湯温泉らしい言葉に変化していた。これではまったく違う意味となってしまう。

まず読み方であるが
「いつかふりし あめはるるらし さんぷくの あづまのさぎり あまのぼりみゆ」
と読む。

これは福島は信夫郡瀬上町(せのうえまち)在住の友人である、門間春雄と高湯温泉吾妻屋に逗留した際に読んだ歌である。吾妻屋での逗留中にしたためた直筆の歌紙片が、この二首のうちの一首である。門間は結核を病んでおり高湯滞在は療養の意味もあった。吾妻山へは茂吉がガイドを雇い、門間を宿に残し単独で登山している。
斎藤茂吉の高湯滞在は、大正5年の7月18日に山形の実家へ父親の病気見舞いに帰郷し、その帰途24日に瀬上町に門間を訪ねている。帰京したのは8月8日となっているので都合16日間滞在し、その間高湯には7日間滞在していた。
意味は「五日間も雨に降り閉じ込められた」「やっと雨が晴れてきた」「吾妻山の山肌に狭霧(濃い霧ではなく、雨上がり山特有の、切れぎれの霧)が這い」「空に上っていく様を仰ぎ見る」という雄大な吾妻の山塊の景色を切り取った歌である。いかにも茂吉らしい山の歌だ。
高湯では雨に降り込められながらも愉快な生活だったらしく、家族に宛てた手紙の中には吾妻を懐かしんだ言葉が幾度か書かれている。

もう一首は
「山の峡わきいづる湯に人通ふ山とことはにたぎち霊し湯」

これも高湯温泉吾妻屋で読んだ歌で、斎藤茂吉全集の吾妻山二十五首には載っていない歌であるが、じつに高湯らしい歌である。これも読者の方が有していた歌は
「山の峡わきいづる湯に人通ふ山ことはにだぎち霊なし湯」
と変化しており、微妙な点で意味が読み取れなくなっていた。「だぎち霊なし湯」ではたぎると読めず意味不明となってしまう。

まず読み方であるが
「やまのかい わきいづるゆに ひとかよふ やまとことはに たぎちれいしゆ」
と読む。

これは当時、吾妻屋と安達屋の間に「熱湯」と呼ばれる共同浴場があり(薬師堂の石段脇)それぞれ渡り廊下で繋がっていた。この共同浴場での情景であろう、いかにも素朴な歌である。
意味は「山の谷間の狭い場所の(茂吉は山の峡という言葉を良く使った)」「湧き出ている温泉風呂に人々が集っている」「大和言葉(山と言葉にかけている、地元の言葉、方言のこと)が聞こえる」「たぎる(煮え滾るのたぎる)良い温泉だ(霊験あらたかな湯、霊泉などと表現され、病などに良く効く温泉のこと)」

当時の共同浴場「熱湯」は浴槽底から自噴させていて、いかにも「たぎる」という表現が当てはまる風呂であった。共同浴場からは、お国なまりの会話が聞こえ、まさに湯治場に滞在する旅人の心情を歌っている。

最後に高湯滞在で読んだ歌をもう一首
「吾妻山 くだりくだりて聞きつるは ふもとの森のひぐらしの声」
高湯を去る道中の歌である。馬に揺られて奥羽本線の庭坂駅に向かっているので、高湯温泉から下った上姥堂付近での歌であろうか。

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