庭坂湯町と高湯〜いにしえからの温泉

前回のブログ「ヌル湯と高湯〜いにしえからの温泉」では高湯温泉の3つの存続の危機の1度目を書いたのだが、今回は2度目の危機をたどってみよう。

戊辰戦争時には米沢藩兵の退却時に、温泉を官軍に使わせないように土湯〜ヌル湯〜高湯と火をつけて撤退したと伝えられている。高湯では安達屋の蔵だけが焼け残ったと言われ、これが高湯温泉の存続を危ぶまれた1度目の危機であった。
2度目の危機は、明治時代に福島県令に着任した三島通庸の、庭坂村湯町建設時の温泉権乗っ取りである。

薩摩藩出身の三島通庸は、時の明治政府の肝いりで東北の国土整備強化のため県令として着任してきた。明治7年(1874)の酒田県令を始めとして、山形県令、福島県令、栃木県令と兼任しながら強大な権力を行使してきた。明治17年(1884)には内務省土木局長に任命され、土木の鬼県令として強引な道路整備などを行った。その強引さは、真っすぐな道路は三島が作ったとすぐわかるほどで、福島市周辺では万世大路(福島〜米沢)、飯坂街道、岡山の中村街道、庭坂街道、八島田街道がある。

道路開設の際には、図面上の道路に対しての土地の接収、家屋の取り壊し、工事労役の住民負担、罰金などを課して県民の生活が疲弊するほどであったと言われている。その行使の仕方は、反対する者などがおれば逮捕投獄までして、徹底した官尊民卑姿勢でブルドーザーごときの振る舞いであった。

さて庭坂村湯町であるが、三島通庸は明治10年(1877)山形県令時代に義兄の柴山景綱を入庁させ、柴山を片腕としてその後の権力を行使するようになっていた。そして明治15年(1882)福島県令に着任すると、早速に柴山を信夫郡長に任命し、管轄内の高湯の温泉をふもとに引き湯する計画を立てた。それは庭坂に湯を引くので温泉宿も引っ越して来い、という強引な内容であった。しかし地元での承諾を得られなかった柴山は一計を案じる。

明治政府は廃藩置県とともに明治6年(1873)地租改正を行ったが、その際に鉱泉権の書き換えを行っていなかった高湯温泉の不備をついて、柴山は所有権を部下の郡書記である徳江末晴の名義に書き換えてしまっている。これにより「高湯26番滝の湯」738ℓ/分と「湯花沢3番」483ℓ/分の2つの源泉を庭坂へ引き湯させられる事となった。この2つの源泉は温度も高く湧出量の多い優秀な源泉であったが、地区内9つの源泉の総湧出量が2,956ℓ/分であるので、4割以上の湯を摂取される事となった。そして三島は明治17年(1884)福島県令から内務省へ移動の2日前に庭坂村への引湯許可を出している。

こうして庭坂湯町の誕生となるのだが、明治18年(1885)引湯工事完了から明治31年(1898)引湯停止までの13年間のもあいだ、温泉歓楽街として湯町は栄えた。湯町には県令や郡長や警察部長たちの官舎が立ち並び、県庁まで2頭立ての馬車で通ったとされる。湯町の共同浴場「共同館」の落成式には、庭坂街道の馬車道の開通式も行われた。

湯町の銅版画を掲載してあるが、メィンストリート(約500メートル)の右突き当りが共同館である。画手前に小山が見えるが、これは現在の庭坂小学校グラウンド端にある愛宕堂。そして左の高台にある建物が官舎である。現在の志田方面に曲がる道路の右角にあたる。ここには県令専用の風呂もあった。
また福島電灯株式会社(後の東北電力)による天戸川の庭坂第一発電所も明治28年(1895)から稼働となり、湯町は「さながら不夜城と化し」ますますの栄華をきわめた。

そして真ん中の掲載画は高湯から湯町までの引き湯経路図であるが、延々と8,5キロの距離を赤松の木管と陶管で湯を引いている。湯町の浴槽湯口での温度は44度ほど、湯色は少し濁りが入った程度であったと言われている。しかし湯管の老朽化などにより湯量の低下、そして温度の低下となったらしい。また湯漏れによる公害も発生した。

さて一番下に掲載した画は明治29年(1896)発行の温泉番付表である。右欄外に客席として庭坂町温泉とある。発行者住所は岩代國信夫郡福島町曾根田とあるので、馬車で行ける手軽な温泉町として記載せねばならない温泉であったと思われる。

高湯温泉では湯町繁栄の期間は、残り湯で細々と営業を続けたと言われており、昔の逸話としては「嫌がらせに蛇や蛙を流した」などの話も残るが、先祖代々の温泉経営者としては、この期間は忸怩たる思いであったであろう。

そして3度目の危機は東日本大震災であるのだが、この話は別な機会の四方山話とする。

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